【伊東潤の 英雄たちを旅する】第35回 天草四郎と島原・天草
原城跡は世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。曲輪や石垣が残り、高台から美しい海と天草を眺める

プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。
信者たちから「神の子」として崇められた四郎
三代将軍家光の時代、島原半島南部の有馬村で、圧政に苦しむキリシタン農民が蜂起した。彼らは一揆(いっき)と化し、寺社や仏教徒の家を焼き払い、僧侶や仏教徒を殺戮(さつりく)した末、島原城を包囲した。要求は「信仰の自由」だが、幕府の禁教令に反することを領主の松倉氏が認めるはずがない。
かくして島原城をめぐる攻防戦が始まった。だが一揆勢は島原城を落とせず、膠着(こうちゃく)状態に陥る。そこに現れたのが天草四郎を奉じた小西家旧臣たちだ。彼らは戦(いくさ)慣れしており、一揆勢を引き連れ、島原半島南端近くの原城に籠もった。
一方、幕府は九州の諸大名を動員し、原城に攻め寄せてきた。これに対し、一揆勢は四郎の下にまとまり、凄(すさ)まじい抵抗を示したが、何の補給もない中での籠城戦には限界があり、最後は全滅となる。
信者たちから「神の子」として崇(あが)められた四郎の本名は益田四郎時貞といい、乱当時の年齢は15から18歳だったという。父の甚兵衛が天草諸島の生まれだったので、いつしか天草という姓で呼ばれるようになった。
籠城戦最中の四郎の胸中は伝わっていない。だがミサを行うなどして、最期まで「神の子」としての役割を全うしたのは間違いない。

原城跡の天草四郎像
島原半島や天草諸島に行くと、キリシタン関連の史跡や遺物が多数ある。長崎でレンタカーを借りて島原半島の東岸を回り、半島南端の口之津からフェリーで天草本島に渡り、天草諸島をめぐった後、熊本に向かうルートがお勧めだ。
島原半島の東岸を南下していくと島原城に出る。この城は松倉重政が1624(寛永元)年に創築したもので、4万3千石の石高であるにもかかわらず10万石クラスの城として築いたので、農民たちの負担が大きく、それが蜂起の原因になったという。
本丸には五重五階の独立層塔型天守がそびえていたが、ほどなくして焼失し、一度は再建されたものの幕末に破却され、現在見られるのは昭和に造られた復元天守となる。その最上階から眺める有明海と眉山(まゆやま)の美しさには息をのむ。

江戸初期築城の島原城は高石垣や堀などの遺構が残る。昭和に復元された天守はキリシタン史料館。日本100 名城

諫早-島原港駅の24駅、約43キロを結ぶ島原鉄道。大三東(おおみさき)駅など有明海を望む駅もある

島原城天守から眉山と市街地を眺める
島原城まで行ったら雲仙(うんぜん)にも立ち寄りたい。雲仙地獄と呼ばれる温泉地帯には、随所に熱湯が噴出しており、キリシタンの拷問にも使われた。

蒸気が噴き上がる雲仙地獄は、雲仙温泉の名所。キリシタンの殉教碑もある
さらに南下すると、激しい攻防戦のあった原城に着く。島原湾に面した後ろ堅固なこの城は、それぞれ独立性の高い六つほどの曲輪(くるわ)を連ねた連郭式城郭だが、籠城戦後に城の破却があり、高石垣が半ばまで崩され、建築物も一掃された。原城から望む有明海の眺めは絶景なので、石垣が破却されたのは実に惜しい。
このほかにも島原半島には、有馬キリシタン遺産記念館、有家キリシタン史跡公園が、天草諸島には、天草ロザリオ館、天草キリシタン館、天草四郎ミュージアム、天草コレジヨ館、大江教会、﨑津教会などキリシタン関連の史跡や博物館が多数ある。
島原と天草をめぐり、四郎の無念に思いをめぐらせながら海を眺めていると、人々の敬虔(けいけん)な信仰心が胸に迫ってくるだろう。

島原の乱の歴史背景、南蛮貿易の影響を受けた時代背景を資料で紹介する天草四郎ミュージアム
文/伊東 潤
写真協力/長崎県観光連盟、熊本県観光連盟、ピクスタ
英雄メモ🖋
天草四郎(あまくさしろう)[1621-1638]
江戸初期、「島原の乱」の総大将の少年。益田時貞。天草四郎は通称。正確な素性は不明。父の益田甚兵衛はキリシタン大名・小西行長の遺臣で、肥後国に帰農。一説には、四郎は学問のため赴いた長崎で入信したとされる。一揆の首謀者である浪人や庄屋たちは、四郎を天から下った救世主に仕立て、そのカリスマ性で島原・天草のキリシタン農民たちを従え、一揆軍の象徴的存在となった。一揆軍は天草富岡城や島原城を攻め、最後は肥前国有馬の原城跡に88日間籠城したが、幕府軍の攻撃により3万7000人(諸説あり)の民衆とともに討ち死にした。島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てとキリシタン弾圧で一揆を招いたとされて改易(かいえき)処分となり、後に大名としては異例の斬首刑に処された。
[島原城跡へのアクセス]
西九州新幹線諫早駅から島原鉄道1時間12分、島原駅下車徒歩11分
[原城跡へのアクセス]
島原駅からバス1時間、原城前下車徒歩13分
[観光の問い合わせ]
TEL:0957-62-0655(島原半島観光連盟)/TEL:0969-22-2243(天草宝島観光協会)
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2025年12月号)
(Web掲載:2026年6月26日)


Tweet
Share