【温泉は人生の句読点だ!】-特別編-潮騒と宵闇のあわいに―つげ義春の眼差しに出合う聖地巡礼<湯宿温泉>
湯宿温泉の雰囲気はつげ義春が描いた当時とはさま変わりしているが、小滝の湯から薬師堂がある辺りは今も面影が残っている

漫画家・つげ義春さんが2026年3月3日に死去した。88歳。氏を敬愛し、関連著作を出している著者が、その比類なき作品世界への敬意と、追悼の思いを胸に、名作の舞台を訪ねた。
宵闇に現れるパラレルワールド
【温泉は人生の句読点だ!】-特別編-潮騒と宵闇のあわいに―つげ義春の眼差しに出合う聖地巡礼<太海漁村>から続く
「ねじ式」と双璧をなす傑作「ゲンセンカン主人」は、より重層的な精神の闇を描き出す。「寂(さび)れた温泉街の宿の女将とデキてしまい、そのまま主人に収まる」という物語は、つげ義春自身の「蒸発願望」の変奏曲とも言えるが、そこには「過去の自分と現代の自分が邂逅(かいこう)する」という時空の歪みが仕込まれている。
そしてつげ義春は、そんな「ゲンセンカン主人」のラストシーンを、結末まで描かずに、主人公の男が〝かつての自分〞のように天狗(てんぐ)の面をかぶって歩いてくるところで終わらせた。この〝寸止め効果〞によって、シュールな物語が、あたかもメビウスの輪のように永遠に繰り返されることを暗示し、読む者の無意識の奥底にある「得体の知れない不安」を呼び起こすような、あるいは〝自分の心の扉のようなものを、無理やりこじ開けられた〞みたいな、強烈な読後感を残す作品となった。

「ゲンセンカン主人」つげ義春/©Shosuke Tsuge
そんな物語の舞台となったのが群馬県みなかみ町の湯宿温泉である。つげファンならご存じの通り、湯宿温泉はつげ義春お気に入りの温泉街であり、当時、時代に取り残されたようなこの温泉街を、彼は現実感が希薄な〝現実の裏がないような温泉街〞と捉えて、そんな湯宿温泉を舞台に白昼夢のような作品が描きたいと思ったという。
そんなふうに、つげ義春に強烈なインスピレーションを与えた湯宿温泉は、今は現代住宅が立ち並んですっかりさま変わりしている。とくに「ゲンセンカン主人」の〝現場〞となった大滝屋旅館はきれいにリニューアルされて、〝つげ感〞はまったく残っていない。聖地巡礼をしたいつげファンにとっては残念なところかもしれないが、しかし、落胆する必要はない。 湯宿が真の姿を現すのは、宵闇が訪れて、景色の輪郭が曖昧になっていくマジックアワーからなのだから。
かつての湯宿温泉の名残は、薬師堂周辺の路地にひっそりと息づいている。宵闇が訪れ、街灯が灯(とも)るころ。だんだんと〝つげ感〞が残(のこ)り香(が)のように立ち上がってくる。そして大滝屋へと続く細い路地は、完全な〝つげワールド〞へと変貌を遂げる。古い木造建築の影、石畳を濡らす湿り気。この路地を曲がっていくと、奥にあの「ゲンセンカン」があるのではないかと誰しも思うことだろう。あたかも時空がねじれて、パラレルワールドの入り口がぽっかりと開いているように。そこへ足を踏み入れたら、メビウスの輪のような世界に放り込まれて、2度と〝現世〞に戻ってこられないかもしれない……。

大滝屋旅館へと通じる路地は夜になると“つげワールド”全開! この奥にあのゲンセンカンがあるとしか思えない
宵闇の中、そんな〝つげワールド〞のオーラを感じながら歩くことこそ、湯宿温泉における、つげ義春の聖地巡礼の正しい作法なのだ。
つげ義春が描いたのは、単なる写実ではない。風景に宿る霊性や、人間の内面に潜む澱(おり)を、漫画というフィルターを通して再構成した〝リアル〞である。 太海漁村の潮騒の中に、湯宿温泉の路地の闇の中に。 半世紀以上たった今でも、「つげ義春の眼差し」が感じとれるはずだ。
文・写真/岩本 薫

きれいにリニューアルされた大滝屋旅館。ご主人いわく「今でも聖地巡礼で訪れるファンは少なくありません」

大滝屋旅館の大滝の湯。ここは独自源泉も引いているので湯宿温泉で唯一、2種の源泉が楽しめる(日帰り入浴13時~15時/大滝の湯1000円、薬師の湯700円。予約制の貸切風呂もある)/TEL:0278-64-0602/群馬県みなかみ町湯宿温泉2383

プロフィール
岩本薫(いわもとかおる)
1963年東京生まれ。温泉研究家、作家、エッセイスト。温泉研究家といってもひなびた温泉にしか興味がない偏愛志向。主な著書に『もう、ひなびた温泉しか愛せない』『つげ義春が夢見た、ひなびた温泉の甘美な世界』『ヘンな名湯』『もっとヘンな名湯』(以上、みらいパブリッシング)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)等。メディアにも多数出演。ひなびた温泉マニアのグループ「ひなびた温泉研究所」のショチョーでもある。

※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2026年7月号)
(Web掲載:2026年7月20日)


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