【おうちで南極体験】南極観測の拠点・昭和基地を知ろう(後編)
1月29日は「南極の日 昭和基地開設記念日」です。1957(昭和32)年のこの日、日本の南極観測基地「昭和基地」が開設されました。今回は、南極観測隊の越冬隊に3回(第15次隊、第22次隊、第34次隊)参加し、隊長・副隊長を務められた佐藤夏雄名誉教授(国立極地研究所元副所長・現特別客員研究員)に、昭和基地についてのお話をうかがいました。(中編より続く)
南極クルーズ&オンライン講座・旅行説明会の詳細はこちらから。
360度見渡せる昭和基地で見た、人生初のオーロラ嵐は一番の思い出
編集部:佐藤先生は昭和基地に滞在されていますが、行く前に聞いていたことや想像していたことと、実際の昭和基地では印象は違いましたか?
佐藤:昭和基地での越冬生活は不便なことが多く大変だ、と覚悟していましたが、実際は暖房があり、おいしい食事もあり、個室もあって快適に過ごせました(笑)。昭和基地の大部分は雪に覆われているという想像も外れ、第15次隊で初めて昭和基地にヘリコプターで降り立ったら、雪はほとんど無く、砂埃が舞う露岩の上に建物が立っていました。
自然の厳しさ、特にブリザードの脅威は想像以上で、実際に体験してみると私が育った雪国の新潟での「吹雪」とは桁違い。強風と横殴りの雪、まさに猛吹雪で先がまったく見えなくなり、遭難の恐怖を感じました。
編集部:逆に噂通り、予想通りだったものはありますか?
佐藤:南極では風邪をひかないと聞いていましたが、実際に風邪の症状はまったくありませんでした。それは南極の空気はとてもきれいで細菌やウイルスなどが大気に舞っていないからだそうです。生野菜や果物などが食べたくなるというのも本当。歯応えのある生野菜や果物を食べたいという思いは切実で、1年後に次の隊が最初のヘリコプターで運んでくれた、キャベツやタマネギの千切りをバリバリと味わった瞬間を今でも鮮明に覚えています。
越冬隊員は強者が多いと言われていましたが、これもその通り。それぞれプロ意識が強く、送り出してくれた会社の旗を背中に強く意識しているのを感じたものです。芸達者の人やスケールの大きい人が多く、私は自分の非力を強く感じることが多々ありました。当時、私は大学院生で、社会人と深く触れ合う経験がありませんでしたので、越冬生活での体験は私のその後の人生に大いに役立っています。
編集部:佐藤先生は第15次隊(1973~75年)、第22次隊(1980~82年)、第34次隊(1992~94年)で南極観測の越冬隊に参加されていますが、当時と現在の昭和基地で変わったところはありますか?
佐藤:最初の第15次隊と現在で最も変わったのは通信手段です。第15次隊の時の通信手段は、南極の昭和基地と日本の銚子無線局の間を短波の電波を用いるもので、家族とはモールス信号による電報で情報交換していました。
第22次隊と第34次隊では船舶用のインマルサット衛星通信が加わり、電話で家族と交信することができるようになりました。しかし、通信料金が高額だったので、私は月に一度程度しか利用しませんでした。現在は、静止衛星のインテルサット回線を介した通信システムが導入され、電子メールやインターネットなどで24時間、家族と連絡がとれるようになり、日本にいるのとほぼ変わりません。
編集部:遠く離れた南極でも日本と同じくらいの通信環境というのは驚きです。ほかに便利になったものはありますか?
佐藤:お風呂です。昭和基地での造水は発電機のエンジン冷却水の余熱を利用し、積もった雪を造水槽で溶かして作ります。第15次隊では造水能力が低く造水槽も小さいため、風呂に入れるのは週に2回でしたが、第34次隊で参加した時は造水能力が高まり造水槽も大きくなったために、毎日入浴できました。
そのほかの変化は、女性隊員の参加です。私が越冬した3回は、女性の越冬隊員はいませんでした。女性が最初に参加したのは第29次隊の夏隊から、越冬隊員の参加は第39次隊から。その後はほぼ毎年のように女性隊員が参加しています。
編集部:昭和基地で思い出に残っているものはありますか?
佐藤:何といっても一番は、オーロラです。私の研究の専門であるオーロラのスケールと動きは感動でした。それは2月のこと、空が少し暗くなり始めたのでオーロラの観測装置を屋上に取り付けている最中に空を見上げると、天空にはピンク色の光のカーテンが激しく舞っていました。いわゆる「オーロラ嵐」で、これは私が初めて見たオーロラです。日本で写真やビデオで見て想像したオーロラとは異なり、360度見渡せる昭和基地の空に舞うオーロラ嵐は、そのスケールの大きさと形の変化の激しさは想像以上。「おー!」「凄いー!」と叫ぶだけでした。この情景は今でもはっきりと目に浮かびます。
夜明けの空の美しさも忘れられません。オーロラ観測の時間帯は夕方から夜明けまでなので、静かな夜明けの空の色は、仕事で疲れた私の心を癒やしてくれたものです。また、朝の淡いピンク色が氷山を染める光景も大好きですし、昼間の氷山のブルーも心魅かれました。
動物に関しては、最初に皇帝ペンギンを見た時は、「大きな体で悠然と動く姿はまさしく皇帝だ」と驚嘆したのを覚えています。ウエッデルアザラシはひなたぼっこが好きで、腹を太陽の方向に向け、日時計のようにゆっくりと動くのです。このアザラシと添い寝をした写真は私のお気に入りです。
編集部:前回の「おうちで南極体験」で、白瀬矗さんのお話を伺った際に、南極観測は敗戦国だった日本が国際舞台に立ち、日本の力を知らしめるための国家プロジェクトになっていた面もあったのを知りました。子どもたちが募金するなど、たくさんの人の努力の末にできた昭和基地という存在について、佐藤先生は個人的にどのような思いを持っていらっしゃいますか?
佐藤:南極観測が始まったのは私が10歳の頃です。南極観測隊の動向をラジオで聞き入り、小学校の体育館での巡回映画やニュースを興奮して見入るなど、家庭や学校で南極観測隊の動向が話題になり、子どもなりに興奮していた記憶があります。「宗谷」が東京港を出港した時、南極に辿り着いて日の丸を掲げて「昭和基地」とした時、帰路で「宗谷」が厚い氷に閉じ込められ動けなくなってヒヤヒヤしたこと、それをソ連のオビ号に救出された時など、当時、大きな喜びとともにそれらのニュースを見ていました。
なかでも最大の歓喜と感動は、南極に残された樺太犬のタローとジローが生きていたことです。このニュースを耳にした時のことは今でもはっきり覚えていて、この時の感動がのちに私が南極へ行きたいと思う原動力になったと思います。今振り返ってみると、子どもなりに日本が未知なる大陸へ挑戦する夢のあるニュースに大変な興味を持っていましたし、当時の世論がこのニュースに歓喜興奮した気持ちは良く理解できます。
編集部:昭和基地での南極観測は、日本中に夢と希望を与え、暮らしなどにも大きな影響をおよぼしたものなのですね。先生のお話で、南極観測をきっかけに生まれた製品も数多くあることに驚きました。これまでより、南極と南極観測との距離がぐんと縮まりました。今日はありがとうございました。
画像提供:国立極地研究所、佐藤夏雄氏
(WEB掲載:2022年1月29日)
佐藤 夏雄(さとう なつお)
1947年新潟県上越市出身。理学博士(東京大学)、国立極地研究所名誉教授。研究分野は「オーロラの南北半球比較」。
南極観測隊には、越冬隊に3回(第15次隊、第22次隊、第34次隊 ※隊長兼越冬隊長)、夏隊に1回(第29次隊 ※副隊長兼夏隊長)参加している。また交換科学者としてフランスとソ連の南極観測隊(ともに夏隊)にも参加、2012年より現職。南極クルーズにも4回参加している。
主な著書に『暁の女神「オーロラ」 南極ってどんなところ?』(朝日新聞社/2005年)、『ELF/VLF自然電波 南極・北極の事典』『オーロラの物理 南極・北極の百科事典』(ともに丸善/2004年)、『オーロラの謎―南極・北極の比較観測』(成山堂書店/2015年)、『発光の物理:大気の発光現象(オーロラ)』(朝倉書店/2015年)がある。