【家康の城へ】150人の大名が参集した秀吉の城 名護屋城(1)
海抜90メートルにある名護屋城本丸から玄界灘を望む。左下の平地は二ノ丸の「遊撃丸」と呼ばれた部分
諸大名の筆頭として、天下人・秀吉に仕えた家康
佐賀県北部の唐津市、玄界灘に面したこの場所に、わずか7年間ではあったがそのにぎわいは「京都にもまし申し候」(当時の書状)と記された城下町があった。天下統一を果たした豊臣秀吉が、今度は朝鮮出兵を企て(文禄・慶長役)、出陣の基地とした名護屋城の城下だ。城下には秀吉の命により全国から大名が参集した。その数およそ150。ある者は渡海して朝鮮で戦い、ある者は城の整備を請け負った。
その大名の中には、徳川家康をはじめ上杉景勝、福島正則、加藤清正、豊臣秀保、前田利家、小西行長、鍋島直茂、木下延俊、黒田長政、毛利秀頼、伊達政宗……と、そうそうたる大名の名前がある。まさに「大名オールスターズ」。現代においても九州佐賀国際空港、福岡空港からいずれも車で約2時間、最寄りの西唐津駅まで博多駅から約1時間30分と、交通の便が良いとはいえないこの場所に、これだけの大名が集ったとは作り話のようだが、天下人の権力は尋常ではなかったのだろう。
大坂城に次ぐ規模と威容を誇った幻の城
城自体も別格だった。「聚楽第に勝るとも劣らぬ華麗な城」と評され、全域は当時としては大坂城に次ぐ規模の17万平方メートル。1591(天正19)年10月に着工し、わずか5か月で、最上段に本丸と5重7階の天守、中段に二ノ丸、三ノ丸、下段に台所丸などを作り、堅牢な石垣を幾重にも築いた。
すべての建造物は取り壊されているため、今訪れると、おのずと石垣に視線が行き、場所によっては見上げるほどの高さの石垣を築いた技術に感服する。所々に崩れた石が転がっているのは、江戸時代に徹底的に破却されたため。放置された石垣が、崩れ去った秀吉の野望と重なるようで趣深い。
佐賀県立歴史博物館では「黄金の茶室」も展示
名護屋城の数奇な歴史をより詳しく知るなら、佐賀県立博物館にもぜひ立ち寄りたい。常設展は「日本列島と朝鮮半島の交流史」を主題に、文禄・慶長の役と、特別史跡「名護屋城跡並陣跡」について解説。城下のにぎわいを描いた「肥前名護屋城図屏風」が圧巻。秀吉が作った「黄金の茶室」も再現されている。2022年11月から「木下延俊陣跡」をリニューアル整備し公開。敷石遺構、雪隠遺構などが見られる。
文/渡辺貴由 写真/齋藤雄輝
名護屋城
入城:無料/清掃協力費(任意、大学生以上)100円
アクセス:唐津線西唐津駅からバス40分、名護屋城博物館下車徒歩5分
問い合わせ:TEL0955-82-5774(名護屋城観光案内所)
佐賀県立名護屋城博物館
入館:9時~17時/月曜(祝日の場合は翌日)休、年末年始休/無料
アクセス:唐津線西唐津駅からバス40分、名護屋城博物館下車徒歩5分
問い合わせ:TEL0955-82-4905
※データは掲載時のものです
【家康メモ】
家康が約1万5000人の兵を率いて名護屋城に滞在したのは、1592(文禄元)年4月から1年4か月間とされる。当時の家康は242万石の大名で、豊臣秀吉に次ぐ実力者だった。名護屋城本丸の北東、「竹の丸」と呼ばれる場所に陣を置き、その東、名護屋浦を挟んだ対岸の呼子町殿ノ浦に別陣を築いた。
名護屋に滞在中、家康は渡海することはなく陣にとどまり、講和交渉に訪れた明の使節の応接を前田利家とともに担当したとされる。
(出典:「旅行読売」2023年2月号)
(Web掲載:2023年3月9日)