たびよみ

旅の魅力を発信する
メディアサイト
menu

【家康の城へ】「江戸始図」で歩く幕府の本拠地 江戸城(1)

場所
> 千代田区
【家康の城へ】「江戸始図」で歩く幕府の本拠地 江戸城(1)

西の丸に架かる二重橋。奥に“皇居で最も美しい櫓”と評判の伏見櫓が見える

 

江戸城の最古級地図「江戸始図」が見つかる

徳川家康が築城した江戸城の最古級絵図が見つかる。この世紀の大発見に歴史ファンが大喜びしたのは、2017年のこと。城郭研究の第一人者・奈良大学の千田嘉博(よしひろ)教授が、松江歴史館所蔵の「極秘諸国城図」から「江戸始図(はじめず)」を見つけたのだ。

千田嘉博・森岡知範共著『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』(宝島社新書)によると、絵図は城を囲む大名屋敷の名前などから1607〜09(慶長12〜14)年頃の様子と判明。家康が江戸城建設を含む第1次天下普請(ぶしん)を命じたのは03(同8)年からなので、まさに完成当時の様子といえそうだ。絵図を見ると、城内の建物に関する記述はないが、石垣は黒く塗りつぶされ、門の位置や通路も明確に分かる。松江藩主の軍学教材として集められた絵図と考えられている。

「極秘諸国城図」から発見された「江戸始図」。同じ絵図集に真田丸も含まれていた(画像提供/松江歴史館)
外桜田門の渡櫓(わたりやぐら)門は枡形に侵入した敵の頭上から攻撃する。三の丸の桔梗 門が内桜田門と呼ばれた

外桜田門から皇居をぐるっと一周

今回は「江戸始図」を案内役にして、当時の様子を想像しながら江戸城跡(皇居)を一周してみた。スタートは外桜田門。幕末に老中・井伊直弼(なおすけ)が水戸藩の脱藩浪士に襲撃された「桜田門外の変」で有名な西の丸下(現在の皇居外苑)の玄関口だ。

西の丸下は日比谷入江を埋め立て大名の居住地にしたところで、「江戸始図」には大久保氏、本多氏、平岩氏、鳥居氏などの名前がある。

大名や役人が登城時に通行した大手門は、現在は皇居東御苑の玄関口
東御苑の本丸休憩所では家光が築城した寛永期の江戸城天守復元模型を展示
巨大な堤塘(ていとう)斜面が続く桜田濠。城側の提塘上部にはさらに鉢巻石垣が積んである

二重橋を左側に見て坂下門へ。家康は現在の大手門ではなく、こちらを本丸への大手筋にしようと考えていたようだ。なぜなら、門の先に5連続で外枡形(そとますがた)を設けているのだ。外枡形は城門の前に設けた空き地で、周囲を高い壁で囲み、多方向から敵を攻撃できる。そんな仕掛けが五つも続くのだから、攻め手の戦力は大きく削がれてしまう。

文・写真/内田 晃

 

【家康の城へ】「江戸始図」で歩く幕府の本拠地 江戸城(2)へ続く


皇居東御苑

入園:9時〜15 時30分(時期により変更あり)/月・金曜休(祝日は公開し、月曜が祝日の場合は火曜休)、年末年始休/無料

交通:東京駅丸の内北口から徒歩15分で大手門

℡:03-3213-1111(宮内庁)

※データは掲載時のものです。

【家康メモ】

関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は1603(慶長8)年に征夷大将軍に就任。江戸幕府の本拠地を諸大名に整備させる第1次天下普請を発する。江戸城建設のほか、日比谷入江の埋め立て、五街道の整備なども行われた。江戸城の建設は1606(同11)年から始まり、翌年に天守が完成している。縄張り(設計)は築城の名人藤堂高虎、天守台の石垣は黒田長政、5層天守の2階は伊達政宗が担当したと伝わる。1605(同10)年に将軍職を息子の秀忠に譲るも、駿府(すんぷ)城で大御所として実権は握っていた。

 

(出典:「旅行読売」2023年2月号)

(Web掲載:2023年2月23日)

☛壮大な歴史ロマンへの旅、日本の名城ツアーはこちら

Writer

内田晃 さん

東京都足立区出身。自転車での日本一周を機に旅行記者を志す。四国八十八ヵ所などの巡礼道、街道、路地など、歩き取材を得意とする。著書に『40代からの街道歩き《日光街道編》』『40代からの街道歩き《鎌倉街道編》』(ともに創英社/三省堂書店)がある。日本旅行記者クラブ会員

Related stories

関連記事

Related tours

この記事を見た人はこんなツアーを見ています