【伊東潤の 英雄たちを旅する】第5回 聖徳太子と飛鳥
甘樫丘から眺めるのどかな飛鳥の里。飛鳥寺も見える
プロフィール
伊東 潤(いとう じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。歴史作家。2013年、『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。過去5回、直木賞候補となる。近著に、敗れ去った日本史の英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て歴史の真相に迫るエッセー『敗者烈伝』(実業之日本社)などがある。
飛鳥に生まれ、偉大な名を残す、聖徳太子こと厩戸王子
飛鳥には、日本人なら誰でも懐かしいと思える原風景がある。のどかな田園と昔ながらの町並み。野原に点在する古墳群。何度訪れてもまた来たくなるのは、なぜなのだろう。
そんな飛鳥に生まれ、後に偉大な名を残すことになるのが、聖徳太子こと厩戸王子(うまやどのおうじ)だ。実は歴史上、厩戸ほど実態が定かでない人物はおらず、かつては実質的支配者だった蘇我(そが)氏の事績を隠滅するため、藤原氏が創作した架空の人物説まで存在した。
今は、実在は確実だが、伝わっている事績の大半、すなわち推古天皇の摂政(せっしょう)として政治の主導権を握り、「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定し、遣隋使(けんずいし)を派遣し、仏教書や『国記』『天皇記』を執筆・編纂したといったことは、厩戸単独ではなく、同時代を生きた推古天皇と蘇我馬子との合作という説が主流になっている。
それでも厩戸は万能の聖人として輝き続け、生誕地の飛鳥は心の故郷であり続けるだろう。
その飛鳥の範囲だが、奈良盆地南部の明日香村飛鳥を中心に、大和三山(畝傍山(うねびやま)・香久山(かぐやま)・耳成山(みみなしやま)) に囲まれた一帯となる。そこには、厩戸ゆかりの名所旧跡が多数ある。
その筆頭は飛鳥寺だろう。飛鳥寺は蘇我馬子が建立した日本最古の仏教寺院で、物部守屋(もののべのもりや)との戦いに勝利した馬子が、戦勝のお礼として建立したと伝わる。日本最古の仏像と言われる飛鳥大仏のご尊顔を拝しつつ、住職さんの講話を聞いていると、飛鳥時代に来たかのような感覚になる。
飛鳥寺の近くには、蘇我入鹿(いるか)の首塚がある。入鹿は稲目(いなめ)―馬子―蝦夷(えみし)と続いた蘇我氏の4代目にあたり、645(皇極4)年の「乙巳(いっし)の変」の折に討たれ、その首が飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)から飛鳥寺まで、約600メートルの距離を飛んだという伝承がある。蘇我氏の豪奢(ごうしゃ)な館があったとされる甘樫丘(あまかしのおか)を背景に立つ五輪塔の下に、その首は埋葬されたという。
その甘樫丘は標高148メートルの小丘で、北側の展望台からは明日香村全体や大和三山が望めるので、飛鳥に行ったらぜひ登ってほしい。
飛鳥と言えば石舞台古墳だろう。この墓は馬子のものとされ、当初は土を盛り上げて造った墳丘が石室を覆っていたが、今では流失してしまい、横穴式の石室が剝(む)き出しになっている。厩戸を支え、蘇我氏隆盛の基盤を作った馬子にふさわしい巨大な墳墓だ。
厩戸と言えば斑鳩宮(いかるがのみや)を忘れてはならない。推古帝と蘇我氏の色が強い飛鳥を離れ、厩戸は新たな仏教の都を創建しようとした。それが飛鳥の北約20キロにある斑鳩宮だ。
斑鳩には厩戸が建立した法隆寺のほかにも、日本最古の尼寺の中宮寺(ちゅうぐうじ)、厩戸の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が建立した法起寺(ほうきじ)、埋葬者不明の藤ノ木古墳などがあり、見どころには事欠かない。
古代史には謎の部分が多い。だからこそ想像の翼を広げられる余地がある。飛鳥や斑鳩に行き、厩戸たちがいた風景の中に佇(たたず)み、同じ風に吹かれていると、彼らの生きた時代が実体を持って迫ってくるような気がする。
文/伊東潤
英雄メモ🖋
聖徳太子(しょうとくたいし)[574- 622]
飛鳥時代の政治家、思想家、皇族。用明天皇の第2皇子。名は厩戸皇子、厩戸王で、聖徳太子は後世の尊称。推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに内政・外交に尽力した。遣隋使を派遣して大陸の文化や制度を取り入れ、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。仏教を信仰して法隆寺や四天王寺などを建立した。
[飛鳥寺までの交通]
橿原神宮前駅東口から周遊バス14分~18分、飛鳥大仏下車すぐ
[観光の問い合わせ]
TEL:0744-54-3240(飛鳥観光協会)
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2023年6月号)
(Web掲載:2024年6月18日)