【明治・大正・昭和 古地図さんぽ】第2回 大正時代の広島市中心部 《最新広島市街地図/駸々堂旅行案内部/1925(大正14)年発行》
明治・大正・昭和の「古地図」をテーマにした新連載です。 その時代を映す地図の古い地名・地形を読み解き、当時にタイムスリップして誌上さんぽを楽しみます。 案内人は地図研究家の今尾恵介さんです。

プロフィール
いまお・けいすけ
1959年、横浜市出身。エッセイスト、フリーライター。地図研究家、収集家。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査などを務める。著書に『地図バカ』(中央公論新社)、『地図マニア 空想の旅』(集英社インターナショナル、第2回斎藤茂太賞受賞)、『地図と鉄道』(洋泉社、第43回交通図書賞受賞)、『地理院地図の深堀り』(PHP 研究所)ほか多数。
疎開という言葉を知らない人も増えたようだ
疎開(そかい)という言葉を知らない人も増えたようだ。1944(昭和19)年に米軍による本土空襲が始まってから、都市部の多くの子どもたちを安全な地方へ避難させたのが学童疎開だが、これとは別に「建物疎開」が各都市で行われている。木造家屋の密集市街地で空襲による延焼を防ぐために家屋を取り壊して防火帯を作る。戦況が悪化するばかりの45(昭和20)年8月6日の朝も、広島市では戦地の男たちに代わって中学校の生徒などが疎開作業に従事していた。市街南部の国泰寺町(こくたいじまち)付近に集まったのは県立第一中学校の生徒たちである。
1年生の奇数組の生徒たちは朝早くから建物疎開を始め、偶数組は校舎内で交代の準備をしていた。そこに世界で初めての原子爆弾が投下される。外にいた奇数組は全員が死亡、偶数組も倒壊した校舎の下敷きになり、あるいは強烈な放射線を浴びて大半が死亡、計353人が犠牲となった。
地図はそのちょうど20年前の25(大正14)年に発行されたものである。図の上方に見える赤いエリアは、鯉城(りじょう)の名で親しまれた広島城の大半を占めていた陸軍の施設で、その本丸には第五師団司令部が陣取っていた。傍らの「旧大本営跡」は日清戦争の時に明治天皇自らが戦争指揮を行った所で、当時も「観光名所」のようになっていた。
T字形に電車が分岐する紙屋町は今も同様だが、その北側は一等地にもかかわらず「西練兵場」とあることから、軍都・広島では軍事が最優先であったことがわかる。
赤ペンで書き込まれた旅館
この地図の元の持ち主が赤ペンで書いた「天城(あまぎ)旅館」が気になって国会図書館デジタルコレクションで調べると、1935(昭和10)年発行の『広島県史蹟名勝写真帖』が次のように詳しく取り上げていた。
「天城旅館本店は、広島一流の旅館にして、明治二年の創業、広島市天神町にあり、市の中央を貫く元安川の清流に臨み、三十五間の堂々たる浮城の雄姿をうつしてゐる。[中略]恐れ多くも 今上陛下摂政宮に在せし当時広陵の地に御行幸遊はされし時、浅野泉邸に御宿泊遊ばされたが、その侍従(じじゅう)武官御一行の宿を仰せ付けられし事もあり、又満洲国交通部長丁監修[正しくは丁鑑修=筆者注]氏が国賓として来朝せられた時広島に於(お)ける御宿を仕(つかまつ)りりし事も[後略]。」
昭和天皇が摂政をつとめたのはちょうど図の頃、大正末期である。赤ペンで書き込んだ人が実際ここに宿泊したかどうか不明だが、そのエピソードを知ってこの宿を選んだのだろうか。疎開作業でできた帯状の空地は各都市で戦後に大通りとして利用されることが多かったが、旅館のすぐ南に架かる「新橋」の位置には現在、平和大橋が架かり、前後は100メートル幅の平和大通りになった。旅館を含めた一帯は平和記念公園となったが、そのエリアだけで約5000人が暮らしていたはずである。市内で疎開作業中だったのは一中の他にも女学校を含む中等学校が26、国民学校も13に及び、5846人の児童生徒、113人の引率教員が犠牲になった。
原爆投下直前の建物疎開の様子がわかる空中写真を国土地理院のサイトで見ることができるが、すべて米軍の撮影によるものだ。私が参照したのは7月25日、それに8月11日の写真で、投下の前後を映すこの2枚の撮影は、明らかに原爆の影響評価が目的だろう。その時、地上ではまさに地獄絵が繰り広げられていたのは言うまでもない。旅館から400メートルほど北には1915年に竣工して10年が経つ物産陳列所(後の広島県産業奨励館)が聳(そび)えていたが、これも無残な廃墟になった。今の原爆ドームである。
文/今尾恵介

かつての市街が現在の平和記念公園。正面奥に原爆ドームが見える(写真/ピクスタ)
※記載内容はすべて掲載時のデータです。
(出典:「旅行読売」2026年9月号)
(Web掲載:2026年9月15日)


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