明智光秀 その謎だらけの生涯
本能寺の変、大河ドラマはどう描く
明智光秀は「本能寺の変」を起こし、「山崎の合戦」で敗れたことで歴史に名を残したが、その生涯の大半は謎に包まれている。
そもそも明智光秀はいつどこで生まれたのか。誕生年に関する有力な説は1528年と1516年とされるが、出生の地も明智城(現・岐阜県可児市)説を中心に美濃国が有力であるものの、近江国(現・滋賀県)で生まれたという説もあるという。父親の名前についても諸説あり、不明な点が多い。
長じては戦国時代を代表する下克上大名の斎藤道三に仕えていたとされる。そして、道三が嫡男・義龍との戦い(1556年)で敗死したのを機に牢人となり、各地を転々とし、越前の朝倉義景のもとに身を寄せたらしい。
室町幕府最後の将軍となる足利義昭との出会いも、越前時代とみられる。ただし、もともと幕臣だったという説もあり、真相は不明。義昭に仕え、のちに織田信長にも仕える「両属」の関係から、やがて織田家の直臣になったと考えるのが理解しやすい。
信長の残忍性を象徴する事件とされる「比叡山焼き討ち」(1571年)だが、光秀はその実行部隊として武勲を立て、近江に所領を授かって坂本城を築城する。
1575年からは、天下布武を目指す信長の家臣として、丹波平定に着手。亀山城を橋頭保として地元の国人、土豪らと激しい戦いを繰り広げ、1579年にようやく平定を成し遂げた。福知山城の築城もこの頃で、織田家の有力な武将としての地位を確立した。
その3年後に、主君・信長を討ち果たす本能寺の変を起こすことになるわけだが、光秀を巡る「謎」の中でも、謀反を起こしたその理由、動機こそがその最たるものだろう。
貶められたことに端を発する怨恨説、足利幕府再興を目指したからという忠義説、下克上時代ならではの、信長にとって代わって天下人を目指したという野望説など、これまでに多くの学説が発表されてきた。
長谷川博己が演じる「麒麟がくる」の光秀は、一体どのような動機で主君に弓を引くことになるのか。
新しい光秀像に興味は尽きない。