渋沢栄一を知る ふるさと深谷紀行
渋沢栄一の生地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の主屋。現在の建物は婿入りした栄一の妹の夫・市郎により1895年に上棟された。栄一が帰郷した際に使っていた部屋が残る。
2024年に発行される新1万円札に、「近代日本経済の父」と評される渋沢栄一の肖像が使われることになった。渋沢はこの2月から放映が始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある。その人物像を探りたいと思い、渋沢の生まれ故郷・埼玉県深谷市を訪ねた。
農民から志士、幕臣、官僚 そして「近代日本経済の父」へ
2020年12月下旬、高崎線深谷駅に降り立った。深谷市は赤城山の南側に位置しており、さっそく「赤城おろし」の洗礼を受け、身を震わせる。
深谷駅は、一見すると東京駅と見間違う外観だ。深谷市には、かつて日本煉れ ん瓦が 製造株式会社の工場が置かれ、ここで作られたレンガが東京駅の駅舎に使用されたことから、建て替えの際にこの外観が採用された。そして、工場建設に尽力し、同社(前身は「日本煉瓦製造会社」)の初代会長を務めたのが渋沢だった。このレンガ工場跡は「旧煉瓦製造施設」として公開されている。到着早々、実業家・渋沢の片鱗に触れた。
渋沢関連の施設は、深谷駅から6㌔ほど離れたエリアに集中している。NHK大河ドラマに連動した「深谷大河ドラマ館」がオープンする2月中旬以降約1年間は、循環バスが運行される予定なので、これを利用すれば散策に便利だ。
まずは、渋沢生地の「中の家(なかんち)」を訪れる。「中の家」とは、この地域を開拓した渋沢一族の各家々の位置関係を示した通称。渋沢は江戸時代末期の1840年、この地で生まれた。現在の主屋は1895年に建てられたもので渋沢が生まれた当時の建物ではないが、西奥の1階10畳間は渋沢が帰郷した時のために造られた部屋。東京・北区の飛鳥山に邸宅を構えていた渋沢は、地元・血洗島(ちあらいじま)の諏訪神社の祭りなどの際によく帰郷してこの部屋で過ごしたという。この部屋から渡り廊下で行ける蔵の中は和室になっていたそうで、これはかつて東京で暴徒の襲撃を受けた経験から、万が一にそなえて避難場所を確保するためだ。渋沢愛用の部屋は、外側から見学可能だ。
「中の家」は、苗字帯刀を許された富農で、栄一の父、市郎右衛門の代には養蚕や藍玉づくりなども行っていた。栄一も家業に従事し、藍の葉の買い付けなどで商才を見せたという。
高崎城を乗っ取る計画も
渋沢がこの「中の家」から論語などを学ぶために通ったのが、従兄に当たる尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の家だ。尾高は水戸学に通じ、渋沢らに影響を与え、ともに尊王攘夷の志を高めていく。尾高宅の2階には渋沢たちが高崎城(群馬)乗っ取り計画などの密議をしたという部屋が残る(部屋は見学不可)。渋沢に明治時代以降の大実業家のイメージしか持っていなかったので、「志士」の時代があったことを知ったのは新鮮な驚きだった。
この時の密議は決起の一歩手前まで進んでいたため、決起中止後、渋沢は身を隠すために京都へ出奔。それが一橋慶喜(後の第15代将軍・徳川慶喜)に仕えるきっかけになったというのだから、人生とは不思議なものだと改めて感じた。ちなみに、日本最初の官営模範製糸場「富岡製糸場」(群馬)は、渋沢が設置主任として設立を主導し、尾高が初代場長を務めた。
尾高惇忠生家から渋沢栄一記念館へと向かう。ここでは、渋沢に関する資料などを見ることができる。若かりし頃の渋沢が地元の祭りで獅子舞を舞っていたことや、渋沢家が藍玉の商売に深くかかわっていたことがわかる資料も。先述の密議の檄文(尾高惇忠筆)なども展示されている。
同記念館のスタッフは「栄一さんが行司役を務めたことが分かる藍農家の番付からは、『みんなで豊かになっていこう』という考えが見て取れる。郷土で栄一さんがどのように育っていったのか、生誕地ならではの資料を見てほしい」と言う。
館内では、録音された渋沢の音声を聞くことができる。また、渋沢そっくりのアンドロイドが身振り手振りを交えて、利益を得る経済活動と道徳の両立について語る講義も受けられる(写真上)。
市内には、渋沢も好物だったという郷土料理「煮ぼうとう」を提供する店が数多くある。赤城おろしに負けないように、煮ぼうとうで体を温め、渋沢の喜寿を祝って建てられたというレンガ建築「誠之堂(せいしどう)」へと向かった。
*新型コロナウイルスの影響により、各施設は見学が制限されていたり、予約制になっていたりする。旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家、渋沢栄一記念館の見学に関する情報は、同記念館(TEL:048-587-1100)に事前問い合わせを。
(旅行読売2021年3月号掲載)
(ウェブ掲載 2021年3月2日)