たびよみ

旅の魅力を発信する
メディアサイト
menu

【「旅行読売」創刊60周年記念】旅のエッセーコンテスト 第3回 旅と鉄道

場所
【「旅行読売」創刊60周年記念】旅のエッセーコンテスト 第3回 旅と鉄道

清流に架かる橋を渡り、山間を行くローカル線の列車。車内にはゆったりとした時間が流れる (写真/ピクスタ)

受賞者:三重県津市 ひきわりさん

「終点まで届く声」

旅の終わりというものは、案外あっけない。帰りの列車に乗ってしまえば、あとは家に着くまでの時間を消費するだけだと思っていた。

その日もそうだった。山あいの小さな町を歩き回り、土産を鞄(かばん)にしまい込み、乗り遅れまいと駆け込んだローカル線のディーゼルカー。二両編成の車内は、学校帰りの高校生や買い物袋を抱えた年配の夫婦でほどよく埋まり、窓からは夏の強い陽射しが斜めに差し込んでいた。旅の高揚感はもう薄れ、私の頭の中は「乗り換えは何分だったか」「夕食は家で何を食べようか」と、すでに日常へ戻り始めていた。

発車のベルが鳴り、列車がゆっくりとホームを離れる。ほどなくして、車掌の放送が流れた。

「本日はご乗車いただき、ありがとうございます。進行方向右手には、この町を流れる○○川が見えてまいります」

よくある案内だった。私は窓を見ることもなく、鞄から文庫本を取り出した。

ところが、次の一言に思わず顔を上げた。

「春になりますと、川沿いの桜が一斉に咲きます。地元では入学式の日、この景色を見ながら新しい一歩を踏み出す子どもたちがたくさんおります」

その声には、観光案内にはない温度があった。

名所を紹介しているのではない。この町で暮らす人たちの時間を、そっと乗客に手渡しているようだった。

私は文庫本を閉じ、窓の外へ目を向けた。

川面は陽を受けて銀色に光り、土手では自転車を押す学生が笑いながら歩いている。洗濯物が風にはためき、小さな畑では麦わら帽子の女性がしゃがみ込んでいた。どこにでもある風景だ。けれど、さっきまで私には、ただ通り過ぎる景色にしか見えていなかった。

列車は次の駅へ向かう。

「左手の山をご覧ください。秋の朝には霧が谷を覆い、雲海のようになります。地元の者でも、思わず列車を降りて眺めたくなる朝があります」

車掌は少し照れくさそうに笑った。

車内にも小さな笑いが広がる。

私は気づいた。放送は決して上手ではない。ときおり言葉に詰まり、少し訛(なま)りもある。それでも耳を傾けたくなるのは、この人が景色ではなく、この町そのものを好きなのだと伝わってくるからだった。

pixta_69695427_L.jpg
車掌との出会いも旅の一部(写真/ピクスタ)

列車が鉄橋を渡る。規則正しいレールの響きが床から足へ伝わる。

窓を開けると、ぬるい風に混じって草の匂いが流れ込んできた。

その瞬間、不思議なことに私は、「早く帰りたい」と思っていたことを忘れていた。

旅先で見た有名な滝や古い町並みよりも、この何気ない車窓をもっと見ていたいと思っていた。

終点が近づくと、車掌は最後の放送を始めた。

「まもなく終点です。本日はこの町へお越しいただき、ありがとうございました。また季節が変わりましたら、違う景色に会いに来てください」

短い言葉だった。

それなのに、その「また」という一言だけで、この町が私を見送るのではなく、「帰っておいで」と迎えてくれているような気がした。

列車を降りると、車掌はホームに立ち、一人ひとりに帽子を取って頭を下げていた。

私は思わず会釈を返した。

何か特別な会話を交わしたわけではない。名前も知らない。

けれど、あの人の声があったからこそ、私は旅先の景色ではなく、その土地で暮らす人々の時間を見ることができたのだと思う。

旅から帰るたび、写真を見返すことはある。

けれど、あの日の列車には、写真に残っていない景色がある。

スピーカー越しに届いた少し訛りのある声が、山や川や町並みに命を吹き込み、「通り過ぎる風景」を「誰かが暮らす場所」へと変えてくれた。

旅の土産とは、鞄に入るものばかりではない。

あのローカル線で終点まで響いていた車掌の声は、今も私の中で静かに発車ベルを鳴らし続けている。


◎ コンテスト講評◎

鉄道ひとり旅の何気ない車内風景を綴った作品で、不思議な読後感がありました。実直で優しい人柄がにじみ出るような車掌のアナウンスを通して、その町に暮らす人々の日常が浮き上がってくるような感覚。旅の締めくくりに、素敵な思い出ができましたね。
《編集長・山脇幸二》

【応募方法】

旅のエッセーコンテスト
月刊「旅行読売」はさまざまな旅を文章にしてきた媒体として、読者の方にも旅の感動を文章で伝えていただきたいと考え、創刊60周年記念「旅のエッセーコンテスト」を開催中です。第1回、第2回、第3回、第4回(12月号)とテーマを変えて作品を募集。旅のエッセー賞(1点)を選び、旅行読売本誌、当メディア「たびよみ」に掲載する予定です。プロ・アマ問わず参加できます。あなたの記憶に残る旅の感動、驚き、発見を、ぜひ文章で表現してください。

詳しくは「旅行読売」本誌をご覧ください。月刊「旅行読売」は全国の書店またはこちらの当社直販サイトで送料無料でお求めいただけます。

(出典:旅行読売2026年10月号)
(Web掲載:2026年9月12日)


Related stories

関連記事